詩唄い

Twitter:@Trakhtn . 肉体のない思想家です

対極をも学ぶ

(※思想・政治的なことは語りません)

人間らしいロボットを作るとしよう。定義された「人間らしい」、とは、何を見て言えることだろうか?

人間は人間しか知らない。感情と理論は対極にあると思い込んでいる。感情を人間らしさと、理論をロボットらしさと置き換えてみよう。本当のロボットらしいロボットとは出会ったことがないのだ!

同じことは人格(ここでは「キャラクター」の訳語として、の)にも言える。人間とは違う文化を有していても、同じような欲を有しているのだろうか?そうであるならば対話はできるが、生物種としても同一のものとなってしまうだろう。

カマキリやウシに意識があったとしても、わたしたちには感じ取ることはできない。あくまで推論し、考えることだけ。全てに自意識があったとしても、わたしたちの視点からは「ないもの」とされる。調理された食べ物に痛覚も、感じるための心さえも存在しないのだから、それは頂いても構わない。彼らにも彼らなりに、考えたり感じたりはするはずだ。人間が見られないだけで。

書き表わさなければ、意識や感じる心が無かったようになってしまう、それが怖いから、消えるのが怖いから、こうして、書いているだけで、他意はない。

 これから工学も発達して、ロボットらしいロボットも、人間らしいロボットも作れるようになるのでしょう、技術の発展はいいことです、手放しに喜べるわけでもないのですが……。

一番怖いのは、思考を覗き見ることが可能になって、思想統制、それも形になっていないものを対象にされてしまう可能性があることです。それだけは勘弁して頂きたい、表現者が生活できなくなってしまいますので!